- 天忍穂耳尊
【御利益】勝運招福 / 家門繁栄 / 厄除開運
- 饒速日命
【御利益】身体健全 / 病気平癒 / 諸願成就
- 國狭槌尊 (比枝神社)
【神】安産
- 日高大神 (狐山)
【神】治水
- 菅原道真公 (天神社)
【神】学業・誠心・書道・諸芸上達
- 稲荷神社
(保食神)
- 皇大神宮
(天照大神)
- 春日神社
(天児屋根命 ・
武甕鎚命 ・
経津主命 ・
比咩大神)
- 厳島神社
(市杵嶋姫命)
- 浮島神社
(浮島神)
- 琴平神社
(金山彦命)
- 竜王社
(天御柱命 ・
国御柱命)
- 楠社
(宇迦魂命)
御祭神 天忍穂耳尊、また饒速日命は物部氏の祖神といわれ、物部氏の本貫地が、河内国の八尾周辺であったことから、当社に祖神がまつられたと考えられます。
創建の時期は詳びらかではありませんが、天平勝宝八年(七五六) 二月孝謙天皇から稲穀を賜る(続日本紀) とあり、延喜式(九二七) には、河内国若江郡に澁川神社二座とあって古代より澁川神社として祭祀されておりました。
とりわけ当地は旧大和川水系にあって、度重なる洪水にみまわれ、水難を免れることが悲願でありました。そのため川を治める水神としても崇められてきました。
中世では植松大明神としてその神威を讃えられ(恒例修正月勧請神名帳)、近世では天神社として村民に親しまれてきました。
夏祭りは七月二十六日に行われますが逆祭(さかさまつり) と呼ばれています。逆祭と呼ばれるのは他社のお祭と異なり、宵宮祭を後縁祭、後縁祭を宵宮祭と唱されるからであります。
その起りは天文年間の水害時、社殿が流失し、御神体が渦に巻かれて水上を逆流したことからで、順序顛倒の意味から逆祭と呼称されるようになったといわれます。
宝永元年(一七〇四) 柏原市で大和川が付け替えられるまで、大阪湾に注いでいた旧大和川は、永年の土砂が堆積して天井川と化し堤防決壊、洪水の頻度が高くなっていました。
「天文二年(一五三三) 五月五日の暁の水害に竜華堤字大門と称する処より切り込み、
民家流失を言うも更なり。氏神社も流失して二柱の神体、水化より水上に袱くれに流れ上がるを、氏人の一族漸くにして抱え揚げ奉護をなせり」(植松・林家文書) とあるように、天文二年の大洪水は極めて激しかったようであります。
それまでは元の社殿は旧大和川の右岸(東側) に当たる川向(若江郡) 現在の安中小学校東南附近に鎮座されておりましたが、この洪水により社殿は言うまでもなく、民家も多く流失しました。
これを機に植松村は旧大和川右岸の若江郡から左岸の澁川軍に移転し、それに伴い神社も元亀三、四年頃(一五七二) に、御幸地のお旅所のあった現在地に遷宮になったと言い伝えられています。
慶長十七年(一六一二) の「植松村慶長検地帳」には、字「ふしおがみ」の地に宮田が一反四畝あったと記録され、また元禄二年(一六八九) の「元禄検地帳」には字「大門」に、七畝八歩の東の宮田と、七畝七歩の西の宮田があったと記録されます。その作得米をもって祭祀の費用や社殿の修理費に充ててきました。
中世以来の当社宮座の人々は十三軒(西組) でしたが、寛文九年(一六六九)から新たに二十二軒が東組として宮座に参加いたしました。以降、東と西の宮座が共同して宮田を耕作してきました。
そして八月二十五日には西方によって九月二十五日には東方によって「湯立」等の神事のある祭祀が行われてきました。
天文二年の大洪水により廃絶した竜華寺(称徳天皇行幸) にかわって当社境内に神宮寺と称せられる宮寺が設けられ、宮寺の社僧によって、当社が管理されていた時代もありました。
宮寺は明治維新の神仏分離令によって神宮寺観音堂として現在の位置に移され、当社はふたたびあらためて澁川神社と改称されました。
明治六年には澁川郡の郷社に列せられ、更に明治四十年には神饌幣帛量供進神社の指定をうけました。
〇 境内地
二千二百十四坪 [2214坪]
〇大楠
高さ 十六メートル 幹周囲 約七メートル
樹齢千年
昭和二十四年五月九日 大阪府天然記念物指定
〇御社殿等
- 御本殿 流造 三坪四合
- 幣殿 七坪四勺
- 拝殿 二十七坪一合六勺
- 神饌所 一坪五合
- 絵馬堂 八坪
- 手水舎 二坪四勺
- 社務所 六十六坪五合
- 参集殿 五十五坪
- 境内社社殿 八社
- 玉垣 十四間
- 石燈籠 二基 寛永十二年(一六三五)八月の銘・元文五庚申(一七四〇)十月二十四日の銘
- 狛犬 一対
- 奉納鳥居 一基 昭和十五年
- 釣燈籠 八燈
- 奉納石標柱 一基 昭和十一年
- 奉納石燈籠 二対 大正三年九月・昭和十一年七月
- 奉納石常夜燈籠 一対 昭和十一年三月
- 奉納遥拝所 一基 昭和四年十二月